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●巻頭言 見つからなくて困るもの 福田 道宏(広島女学院大学国際教養学部准教授) 「稀覯本」という言葉はあるが、雑誌こそ稀覯である。特に高尚な雑誌、もともと少部数の雑誌などではなく、低俗なものほど、相当数刷られた、ありふれたものほど、稀覯雑誌と呼ぶべきものになってしまっていたりする。一定年数が経った雑誌を廃棄してしまう公共図書館も多いし、あまり低俗なものはそもそも入らない。最近、或る必要があって、80年代のそんな雑誌をいくらか入手した。たとえば、『写真時代』(白夜書房、1981~88年)。飛び飛びに30冊くらい手許にある。県内で閲覧できるところはないし、完全にそろっている公共図書館は全国にもない。赤瀬川原平と「超芸術トマソン」について卒業論文で書いている学生がいて、その初出を見てみようと買ったのだが、森山大道が長いスランプから抜け出すきっかけとなった、あまりにも噛み合わないインタビューと、久しぶりの大真面目な連載が載る一方で、やりたい放題の荒木経惟の写真、南伸坊のおふざけ連載など80年代という時代の空気感がおもしろい。その後、赤瀬川が『写真時代』の連載「発掘写真」を「トマソン」と一本化するまで、併行して月刊『ドリブ』で「トマソン」をやっていたことが判かったので、その『DoLiVeドリブ』(青人社、82~97年)も買ってみた。入手した創刊号にはたしかにトマソンの記事があるが、以下、肝心の82年12月号以前の号が見つからない。国会図書館が所蔵するのも83年終わりからである。 『ドリブ』巻頭言「今月の気分」は創刊当初、糸井重里が書いていたが、初代編集長嵐山光三郎が編集長を辞したのち引き継いだ時期があるらしい。87年5月号、嵐山による連載23回冒頭は「捨てるのが惜しいもの。①愛読した雑誌。②同じく本。③ドリブ。④昔の教科書。⑤赤線が入った学習参考書。こんなもの、早く捨てちまえばいいのに、勉強したころの心が染みついているようで、引越しのたびに持ち歩く。⑥昔の名刺。係長になったから新しいのに印刷しかえたが、青いプラスチックに入った昔の名刺は、なぜか捨てがたい。⑦1年前のタバコ。机の引出しからタバコが出てきて、「オオ!ヤッタ」と開けてみると、しみがついていて、吸うとまずい。しかし捨てがたいからまた引出しにしまっておく」といった具合に列挙する。「○58うめぼしの種」、「○83カビのはえたお歳暮のハム。○84中華料理の残り」など本当か嘘かあやしいもの、明らかに嘘だと思われるもの、意味のわからないものもある。最後は、「○96ドリブにおける嵐山の巻頭言、とここまで書いて紙数がつきた。あとは100まで諸君が考えてくれたまえ」と締め括る。よほど書くことに困ったのかもしれないが、不覚にもちょっと嵐山に親しみの念を抱いてしまった。顰に倣う理由もまったく見つからなくて困るが、試みに書いてみた。見つからなくて困るもの。①提出締切を過ぎている書類。②昔、調査で撮った写真。原版はおろか卒論から引きはがしたプリントも行方不明。③雑誌のバックナンバー。以前、戦前・戦中期の画塾について調べていた際、当該期の美術雑誌も揃わなかったが、80年代の『ドリブ』や『写真時代』だってなかなかどうして見つからない。④電話帳のバックナンバー。調べに行った学生によると広島の公立図書館は最新のものしか置かず、バックナンバーは一般家庭と同様、最新版と引き換えに返してきたというが、本当だろうか。⑤てんでばらばらで拡散する一方の調査したいテーマの収束点。⑥この巻頭言の落としどころ、とここまで書いて紙数がつきた。あとは最後まで読んでしまった会員諸氏からのお叱りではなく、「実は持っています」という申し出を待つことにしたい。
● 第116回例会報告 ◇ 歴史の町・呉で『この世界の片隅に』を体験! 報告:松本 侑子(呉市立美術館学芸員) 第116回例会は、2016年9月18日(土)に呉市立美術館長・松田弘委員の企画・ご案内で開催された。呉市立美術館の「マンガとアニメで見る こうの史代「この世界の片隅に」」展の鑑賞と、関連イベントの「この世界の片隅に」を支援する呉・広島の会メンバーによるトークイベントを公聴するというものである。まず展覧会でマンガの全原画と、作中に登場する歴史的な資料、さらに11月12日に公開を控えたアニメーション映画の資料を鑑賞し、こうの史代、片渕須直という二人のクリエイターの作品に対する真摯な姿勢というものを見ることができた。 午後からのトークイベントでは「『この世界の片隅に』を支援する呉・広島の会」という有志団体メンバーによる活動の紹介や、この作品にかける思いなどを聞いた。「支援する会」は映画化の発表と同時に正式に発足し、それ以前からの活動も含めると足かけ5年になる。メンバーたちは様々な経歴を持ち、監督のロケハンに協力するなどしてきた。特に力を入れたのがPR活動で、作中に出てくる場所を巡ったり、当時の料理を再現するなどのイベントを行い、より多くの人に作品を知ってもらうように取り組んできたそうだ。 『この世界の片隅に』はクラウドファンディングを行うなど、資金集めの段階からファンと協力して作られてきた作品である。こんなにもファンと制作者が密接に関わり合って作品を作り上げていくという例は他にはないだろう。制作側の「いい作品を作りたい」という思いが伝わり、市民を巻き込んでの制作活動となった。完成後の作品を見るだけでなく、自らも積極的に作品の制作に関わっていくという、芸術と鑑賞者の新しい関わり方ととらえることができるだろう。
● エッセイ 秋高気爽 袁 葉(広島大学非常勤講師・エッセイスト) (一) 白いレース襟を付けたのオレンジ色のブラウス、裾がフリルになった小花柄のワンピース。ショーウィンドーを見つめているのは、85年の初秋、異国の街にやって来た私である。 どんな少女が、この服を身につけるのだろうー似合うとしたら、きっと「清楚で可愛らしい」と、会うはずもない人を羨ましく想像してみた。中国で過ごした少女時代には、このような綺麗な服の存在すら知らなかった。 キンモクセイの香りを帯びたそよ風に吹かれ、私は遠い昔を歩いていた。 ・・・・・・ 文化大革命(66年~76年)の間、中国人の服装といえば、老若男女を問わず主として「人民服」である。色は紺、グレー、黒そして緑だった。このまるで白黒映画のような世界の中で、「緑」だけがカラーのように見える。さらに、毛沢東主席による「解放軍に学べ」という呼びかけによって、緑の軍服への憧憬が生まれた。当時、軍服と人民服は同じ型だったため、たちまち、国中にその緑が流行りだして、とうとう「国緑」という、国民的な美称が誕生した。 しかし、本物の「国緑」に恵まれたのは、軍人とその子弟や親戚たちぐらいで、我が家系には縁のないものだった。 休日に女性兵士が街を散策する姿は、中学生の私の目にはとても眩しく映った。 (二) 75年、北京の街路樹が落葉し始めたある午後のこと。映画館へ行く途中、あるお店の中から道路まで延びた行列に出くわした。どうしたの? と首を伸ばして見たら、なんと「国緑」の布地を売っているじゃない! しかし、そんなはずはないと念入りに見ると、間違いなく今まで見た中で、一番「国緑」に近い色味の生地だった。 これほど酷似したものを販売するなんて、人民の心情をよく汲み取ってくれている、と感心した。待てよ? これだけ人数がいると、すぐにも売り切れるかも・・・と思うと、もう映画どころではない。体育の授業では走るのが苦手な私だが、この時ばかりは、なぜか足にローラーでも付いたかのように、猛スピードで家へ駆け戻った。貯金箱を小脇に抱え、再び家を飛び出した。 例の店が見えた時、なんと行列が倍の長さになっている。私はラスト・スパートの勢いで突進し、最後尾についた。 あれっ? 前に進むどころか、かえって退いたじゃないか。噂を聞いて駆けつけた近所の人やその友だちが、喋っているうちにそのまま割り込んだらしい。 私の番になった時は、窓外の風景はすでに夕陽の色に染まっている。 「国緑」の生地を手に,その足で仕立て屋に直行。 「軍服と同じデザインにしてください」と頼んだ。生地と仕立て代合わせて16.5元、労働者の初任給18元に匹敵する額だ。貯金箱をカウンターにひっくり返して、不足分は財布から。ぎりぎりセーフなのを見てとって、仕立て屋さんはパチンと指を鳴らした。 帰り道,今日はいい日だった! 映画は明日にでもしよう。思わず夜空を見上げると、星のまたたきが一段と美しく見える。家に着くまでずっと、歌を口ずさんでいた。 (三) 十日後,待ちに待った日がやってきた。姿見の前で「国緑」を身にまとうと,あまりにもドキドキして,自分の姿をまともに見れずにいる。 「サイズはぴったりですね」と言われて初めて、視線を上げてみる。こんなにカッコイイ服を着て、ホントにいいの? と、頬っぺたが熱く感じる。仕立て屋さんに勧められたこともあって、私は思いきって着たまま帰ることにした。 街のウィンドーガラスに映るわが姿を見て、「人是衣服,馬是鞍」(馬子にも衣装)だと、妙に納得する。 近所の写真屋さんの前を通りかかると、ひらめいた。ついでに、記念写真も撮ろう! 「白黒とカラー、どっちにされますか?」と店員さん。 壁に飾られた、白黒に彩色を施した見本写真を見て、しょせん、本物の「国緑」の色合いは出せまいと思い、白黒にしておいた。 (四) 家の扉を開けると,お客さんの話す声が聞こえた。内モンゴル自治区の人気作家Eさんだった。父は「中国作家協会」の会員で、家には作家仲間がよく訪れる。また、内モンゴルへ出張して大草原に魅せられた父は,私に「紅」を意味するモンゴル語の「鳥蘭(うらん)」という愛称を付けてくれた。そのおかげで、モンゴル族の作家の間では、私はかなりの人気者だ。 私の服装に目を丸くしたEさんは、 「鳥蘭ちゃん,大きくなったね。もう中学生ですか?」 「はい」 「解放軍に入りたいの?」 「それはもう,もちろん!」 当時は中学生も高校生も卒業後、田舎で農作業に就くことになっている。いわゆる「下放」だ。したがって、軍人という職業は若者の憧れだった。 「この子の同級生の解放軍の子弟が、次々と軍に採用が決まり、羨ましくてたまらないんだよ」と、父が口を挟んだ。 「たしかに、知識人の子どもの場合は難しいね。でも、不可能ではないですよ。内モンゴルに駐屯する○○部隊の司令官は親友だから、鳥蘭ちゃんを推薦したら、なんとかなると思いますよ」と。 わあーい,軍人になれる! この服がもたらしてくれた幸運だ。 「その代わり、内モンゴルに住まなくちゃ」 ん?! 私は本物の軍服を着て,この北京の街を颯爽と歩きたい。内モンゴルだと、結局、馬や羊たちに見せることになってしまわないか。その時,初めて気が付いたこと-軍人になりたいのではなく、ただ本物の「国緑」を着たいだけなのだ。 (五) 翌朝、学校で私の「国緑」はデビューした。校庭で「国緑」同士、すれ違った時、自分の色は黄みがかっているのに気がついた。向こうは軍人の子弟のだ。さらに、こっちの生地は若干厚めで、なんとなくゴワついているような気がする。それはいかにも偽物に見える。 まさに「不怕貨不好,就怕貨比貨」(質が良くないのは気にしない。怖いのは比べられることだ)という諺どおり、こんな惨めな思いをしたのは初めてだ。ふと、昨日のEさんの顔が浮かび、内心呟いた。「本物の軍服だって、着ようと思ったらできるんだ。ただしないだけさ!」 結局,その服は「タンスの肥やし」という運命になってしまった。 そして翌年、再びやってきた秋は、中国の現代史に永遠に残る一ページとなった。76年10月6日、中国を思いのままに支配してきた「四人組」がついに逮捕され、十年間にわたる文化大革命の動乱にようやく終止符が打たれたのである。その日を境に、中国人は精神的に解放され、各自が夢を持てるようになり、そして、本当のお洒落に目覚めていった。 (六) 「カラカラン♪」と鳴るドアベルの音が、私を「過去への旅」から引き戻した。見ると、ショーウィンドー脇のドアから、一組の母娘が入ろうとしている。顔は見えなかったが,ストレートの髪のすらりとした後ろ姿で、あのワンピースによく似合うだろうと思った。 ・・・・・・ それから四年の歳月が流れ、再びキンモクセイが香る季節が巡ってきた。89年、留学生の私に広島のあるテレビ局から、週一回の番組出演の依頼があった。書籍とレポート用紙に囲まれていた私は、いきなりトレンドやファッションが飛び交う世界に入り込み、何もかもが新鮮だった。 以降、六年間のテレビ出演で、番組のスポンサーからは、四季折々の最先端のファッションを着させてもらった。それらの衣装は、本番に臨む私をいつも元気付けてくれた。 ・・・・・・ 文革の十年間、私は美を求めて不毛の砂漠をさ迷いながら、「緑」にばかり憧れていた。しかし、本当の「緑州」(オアシス)に巡り会えたのは、この国に来てからである。
* * * * * * お詫びと訂正 本年7月刊行の『藝術研究2016』(広島芸術学会 年報第29号)において、末尾に掲載の「広島芸術学会会則」の内容に一部誤りがありました。昨年8月1日に行われた総会にて、「幹事の設置」に関する会則改正を第3号議案として提出し、ご承認をいただきましたが*、上記の掲載箇所にはその改正内容が反映されておりませんでした。次号の年報刊行時に改めて修正を行いますが、まずは本ページにて、お詫びと訂正をお伝えします。 *会報第134号(2015.8.28発行)別添資料「平成27年度総会報告(「4 議事」部分の詳細)」に掲載 <訂正箇所>
(役員)
(役員の任務)
(役員の選出及び任期)
(委員会)
附則
事務局・『藝術研究』編集部会
─事務局から─ ◆ 会費の納入について(再依頼) 前号で依頼しました平成28年度会費の納入がお済みでない方は、納入をお願いいたします。当学会は、会員の皆様お一人お一人からいただく会費で成り立っております。ご理解とご協力のほど、よろしくお願いいたします。 納入にあたっては、前号に同封のゆうちょ銀行払込用紙をお使いいただきますと、手数料が学会負担になりますので、どうぞご利用ください。なお、過年度の未払い分につきましても、同一の払込用紙で合わせて納入いただけます。 会費の納入状況を確認なさりたい方は、事務局にお問い合わせください(fax : 082-424-7139,e-mail : hirogei@hiroshima-u.ac.jp)。 ご住所、ご所属等の変更がありましたら、郵便、fax、e-mail等で事務局までお知らせ下さい。 (事務局長・大島徹也)
◆ 新入会者のお知らせ(敬称略)
─会報部会から─ ・チラシ同封について 会報の送付に際して、会員の方々が開催される展覧会・演奏会などのチラシを同封することが可能です(同封作業の手数料として、1回1,000円をお願いいたします)。ただし、会報の発行時期が限られるため、同封ご希望の場合は、あらかじめ下記までお問い合わせください。次号の会報は1月中旬~2月中旬の発行を予定しています。 ・催しや活動の告知について 会員に関係する催しや活動を、会報に告知・掲載することが可能です。こちらについても、ご遠慮なく、下記までご連絡、お問い合わせください。 (馬場有里子090-8602-6888、baba@eum.ac.jp)
研究発表募集 本学会は、随時、研究発表を募集しています。研究発表申し込み手順については、下記をご参照ください。 その他詳細は事務局までお問い合わせください。次回の発表機会は2月または3月の例会となります。 (1)研究発表主題、600字程度の発表要旨に、氏名、連絡先、所属ないし研究歴等を明記の上、 事務局宛てに、郵送またはE-mailにて、お申し込みください。 (2)委員会で研究発表の主題および要旨を審査の上、発表を依頼します。
― 次回第117回例会のご案内 ― 下記のとおり第117回例会を開催いたします。多数お集まりください。 例会終了後に、忘年会を兼ねた懇親会を開催しますのでふるってご参加ください。会場は例会会場 近辺、会費は3,500円程度の予定です。詳細は当日、お知らせいたします。 日時:2016年12月17日(土) 15:00~17:00 会場:サテライトキャンパスひろしま 604中講義室(6階) (広島市中区大手町1-5-3 広島県民文化センター内 Tel.082-258-3131)
<研究発表要旨> ① 戦後台湾の日本語文学―黄霊芝「自選百句」の方法― 下岡友加(広島大学大学院文学研究科准教授) 黄霊芝(1928-2016)は、創立当初(1970)から台北俳句会の主宰をつとめた俳人であり、『台湾俳句歳時記』(2003、言叢社)の著者である。黄の俳句暦は60年に及んだが、彼が最終的に行き着いた俳句観を知る手がかりとして「自選百句」がある(『戦後台湾の日本語文学 黄霊芝小説選2』2015、溪水社)。 本発表は、まず「自選百句」が「台北俳句集」「黄霊芝作品集」「候鳥霊芝合同俳句集」「台湾俳句歳時記」等、過去の黄の句からどのように選ばれ、構成されているかを詳らかにする。句の初出年代からすれば、「自選百句」は黄の長い句歴に広くまたがり、年代ごとの代表句をほぼ平等に拾うかたちで構成されていることがわかる。また、選ばれた百句をリズム、音調、季語、取り合わせの観点から分析すると、結果として次の四点が特徴として指摘できる。第一に、定型を基調とした句が92句を占め、自由律俳句は多くない。第二に、リフレインによる音調への高い意識が見られ、百句の結びにその典型句が集中して置かれている。第三に、季語は99句に採用され(台湾季語30句、日本季語69句)、重要な要素として機能している。第四に、黄霊芝俳句の基本構造として既に指摘のある「二章体の配合」(磯田一雄)、「両物対立原理」(阮文雅)といった方法が確認され、その取り合わせのために定型が破られる場合がある。その他、口語的表現の採用や自然物と人間を同等に捉える世界観、諧謔性や遊びの要素等を見てとることができる。 黄は生前、「俳句は日本の先生が開拓した分野だけど、それに巻き込まれるのではなくて、という気持ち」(2013.7.14インタヴュー)があると話していた。本発表はそのような彼の追究する独自性が、実際にどのように表現として定着しているかをみる試みである。
② ピエール・ボナール作《桟敷席》に関する一考察―ベルネーム=ジュヌ画廊との関わりを中心に― 渡辺千尋(呉市立美術館学芸員) ピエール・ボナール(1867-1947)はモーリス・ドニやポール・セリュジエらとナビ派を結成し、本格的に画家としての活動を始めることとなるが、1900年以降ナビ派の活動が収束すると、その後は特定の芸術動向には属さず画業を続けた。ボナールは画業の初期からポール・デュラン=リュエルやアンブロワーズ・ヴォラールといった、パリの有力な画廊で個展やグループ展を開催したが、ベルネーム=ジュヌ画廊もボナールの画業形成において大きく関わった画廊である。現在もパリ11区で営業しているこの画廊は、1900年ごろ、先代からその息子たちであるジョスとガストンのベルネーム=ジュヌ兄弟に経営が引き継がれた。同世代の若く有望な芸術家たちの作品を取り扱いたいと考えていた兄弟は、1906年にボナールと専属的な契約を結び、以後公私に渡ってボナールを支援することとなる。 ボナールは兄弟の肖像画として2点の油彩画を制作しているが、1908年に制作された《桟敷席》では、ガストンの頭部が画面の上端で寸断されるという大胆な構図で描かれている。この頭部の寸断について、先行研究では、ボナールの兄弟に対する皮肉とする考えが見受けられる。しかしボナールは画業を通じて、画面の上端で人物像の頭部が寸断される構図を多用しており、ベルネーム兄弟もこの画面構成をボナール作品の特徴として認識していた。 本発表では、ボナールと、彼の画業において重要な役割を担ったベルネーム=ジュヌ画廊との関係を整理し、これまで十分な考察がされてこなかった《桟敷席》の作品解釈を試みる。
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